会報「檜」バックナンバー
平成16年 弥生・卯月 第3号
鑑真和上 | 「お水取り」は伝統的な仏教儀礼の宝庫 | お知らせ
鑑真和上 奈良国立博物館長 鷲塚 泰光

天平五年(七三三)四月三日、遣唐使船が難波津を出航した。この船には興福寺の栄叡と大安寺の普照という二人の留学僧が乗っていた。彼らの使命は唐での勉学は当然のことであるが、戒律の師を招聘するという大きな目的があった。当時わが国は聖武天皇を頂点とする仏教の興隆はあったが、三師七証に導かれる正式な授戒の制度は整っていなかった。租税や課役を負担する農民が流浪したり寺に入ることは国家存立の基礎をあやうくすることで出家得度を規制することは急務の一つであった。このことに気付いたのが元興寺の隆尊で、彼は舍人親王に進言して戒律の師を求めさせたのである。八月に蘇州に漂着した栄叡と普照は翌開元二十一年四月には東都洛陽に達し自らも具足戒を受けると共に法臘十年を経た戒師の選択に当った。幸にして大福先寺で道_という律僧に遭遇し、天平八年(七三六)日本に無事送り込んでいる。しかし以降は目ぼしい人物に巡り合えずむなしく時を過ごした。当時唐では九年間故国に帰らない者は唐の戸籍に編入されるという制度があり本国から使者の来るのを待たず帰国の決意をする。長安・大安国寺の僧道杭に来日を要請し、他の三僧と共に、天宝元年(七四二)一行は船で大運河を下り、楊州に着いた。宰僧李林甫の兄林宗の家僧であった道杭の手づるで帰国の手筈を整えるが、当時揚州大明寺で律講を開いていた道杭の師・鑑真を訪れ来日を要請する。鑑真は日本の事情にも精通しており居並ぶ弟子に対し訪日を促すが寂として声が無い。

その時鑑真は「是は法事のためなり、何ぞ身命を惜しまん。諸人去かずんば、我すなわち去かんのみ」と国禁を冒しての東征を決意する。それから十二年五度にわたる失敗を繰り返すことになる。特に第五次の渡航は遥か海南島にまで流され、来日を強く要請した栄叡が死に、自らも失明の上、最愛の弟子祥彦も失うことになる。一旦楊州龍興寺に住すが、第十次遣唐使藤原清河の懇請で天保一二年(七五三)十月黄泗浦を出航し暴風に遭いながらも一二月二〇日薩摩国阿多郡秋妻屋浦に到達する。今年は和上来日一二五〇年に当り、一二月には秋目で鑑真和上像を遷座して盛大な法要が営まれる予定である。

翌天平勝宝六年(七五四)二月奈良の都に着いた和上は四月には東大寺大仏殿の前で聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする四百四十余人に戒を授け所期の目的を達成する。翌年には東大寺に戒壇院が設けられ天平宝字二年(七五八)まで授戒と律学の講讃が続けられる。同八月鑑真は僧網位を止められ大和上の称号を賜る。天平宝字三年故新田部親王の旧宅を賜り、律学の最高権威「唐律招堤」を営む。これが唐招堤寺の起源である。天平宝字七年(七六三)春、弟子の忍基が講堂の梁が折れる夢を見て、和上の遷化が近いことを知り、弟子たち相寄って和上の肖像を造る。これが国宝の乾漆鑑真和上像である。不屈の精神を備えた和上の姿がみごとに捕らえられ、わが国肖像彫刻の白眉として厚い尊崇を集めている。和上がわが国にもたらしたのもは計り知れないが、薬学の知識は際たるもので正倉院宝庫に伝わる『種々薬帳』に記された「本草」の数々もこれらの知識に基づくものと考えられる。また三千粒に及ぶ「舎利」は特段の信仰を集め、東征の遭難の時海中に沈んだ舎利を亀が背に乗せて救ったという説話に基づく「金亀舎利塔」として崇められている。目下金堂が解体修理中であるがその無事な完成を祈って止まない。

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「お水取り」は伝統的な仏教儀礼の宝庫 長谷川 裕子

「お水取り」は東大寺二月堂修二会全体を表わす俗称になっていますが、実は修二会の付加儀礼の一つです。十二日の夜半すぎ、二月堂下にある若狭井の香水を汲んで観音さまにお供えするところから「お水取り」の言葉が生まれたとのことです。

修二会とは旧暦の二月に厳修する「ほうえ法会」という意味で、一ヵ月近くに及ぶ長期の行事です。三月一日から十四日までの本行と、この本行のための準備をする二月二十日から二十八(二十九)日までの前行(別火)に分かれています。修二会の始まりは大仏開眼の年、七五二年に遡ります。東大寺の危機存亡のときも乗り越え千二百有余年の間、一度も止むことなく連綿と今日に引き継がれています。

私たちがメディアでよく見かけるのは、大松明が登廊を経て二月堂の欄干上に現わす姿で、これが夜の法会の始まりです。午後七時、一本ずつ計十本、火の玉となった大松明がゆっくりと登廊を上がり、炎を燃え上がらせ、火の粉を飛び散らせながら、欄干を駆け抜けます。その姿は幻想的で、言葉にできない荘厳さを感じます。

そのわけは修二会の正式名称「十一面けか悔過」に隠されている気がします。二月堂のご本尊である十一面観世音菩薩の前で、連行衆という選ばれた僧侶(現在は十一人)が、僧侶自身のみならず他のすべての人が日常犯しているさまざまな過ちをさんげ懺悔されるのだそうです。だからこそ、人々は無病息災を願って火の粉のかかる場所に近づき、燃え殻を拾い集めて持ち帰るのだとわかりました。

二月堂下の参籠宿所入り口でかみ紙こ衣姿の上野道善東大寺執事長が話してくださいました。ー修二会は「水と火」ー

(参考文献:東大寺発行パンフレット)

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お知らせ
野村笑吾、笑陶小品展
とき 2004年3月6日(土)〜27日(土)9時30分〜5時
ところ ギャラリーアンデルセン 京都市上京区二条城公園西側
飛騨國際工芸学園 「暮らしを編む」卒業家具展 藤田一郎
とき 2004年3月10日(水)〜14日(日)10時〜6時
ところ 京都文化博物館 別館ホール
チャーチル会京都・春の小品展 木津谷文吾
とき 2004年3月11日(木)〜14日(日)10時〜6時
ところ 京都文化博物館5階
第129回特別例会「檜の会」 ゲスト若手建築家 若林広幸
とき 2004年3月13日(土) 時間6時から
ところ 東山やすい桧小路 「檜
現代の水墨画作家展
とき 2004年3月5日(金)〜4月11日(日)  時間午前11時〜午後8時
ところ ギャラリー「kazahana」 東急ホテルロビー
弓と能面展
とき 2004年3月28日(日)〜31日(水)
ところ 東山やすい桧小路 「檜」
工芸美術展in仁和寺
とき 2004年4月2日(金)3日(土)  時間午前10時〜午後5時
ところ 仁和寺・御室会館2階大広間 出展 金箔近藤正明
日本伝統工芸融合作品展
とき 2004年4月5日(月)〜10日(土)
ところ 清水市日本平 日本平ホテル別館瑞光の間 近藤正明
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