小倉百人一首は、種々の問題を内包しつつも、藤原定家選であることは通説となっている。しかし、その選歌姿勢や基準については、数多くの研究者によって検討され、論及されてきたにも拘わらず、納得のいかないことだらけである。100首を勅撰集的部類で考えると、恋(43)・四季(32)(春6・夏4・秋16・冬6)・雑(20)・旅(4)・離別(1)となり、恋歌が多い。この恋歌を勅撰集別にみると、古今(4)・後撰(4)・拾遺(8)・後拾遺(9)・金葉(1)詞花(3)千載(8)・新古今(4)・新勅撰(1)となるが、新古今の四首は、伊勢・兼輔・好忠・儀同三司母の歌であり、平安中期以前の歌人ばかりである。新古今時代の恋歌は一首も採択していない。しかも、新勅撰の一首は、定家自身の「こぬ人を」であり、これは有吉保氏も指摘したように、当代の恋歌を代表するのは、自分だけだと言わんばかりである。
定家は、百人一首の選歌の際に、その歌人の代表的な歌を採択したわけではない。因みに、父俊成の自讃歌であり、中世和歌史に注目すべき問題を投げかけた「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」を選んではいない。公任の三十六歌仙では、比較的その歌人の代表的な歌が採択されている。もちろん定家の場合、百人の歌人、しかもただ一首のみという点では、極めて困難ではあったろう。それにしても、例えば百人一首で唯一親子三代に亘って選ばれた六條源家について言うと、疑問がいっぱい出てくる。経信・俊頼・俊恵は、自然観照詠にその本領がある。それは、新古今時代に至っても、その評価は変わっていない。詳論する紙幅がないので、三人の代表的な自然詠を掲示しておこう。
・月影のすみわたるかな天の原雲吹き払ふ夜半の嵐に(経信)
・三島江の入り江の真菰雨ふればいとごしをれて刈る人もなし(〃)
・初雪は槙の葉しろく降りにけりこや小野山の冬のさびしさ(〃)
・風吹けば蓮の浮葉に玉越えて涼しくなりぬひぐらしの声(俊頼)
・鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮(〃)
・ふるさとは散るもみぢ葉にうづもれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く(〃)
・夕立のまだ晴れやらぬ雲間より同じ空とも見えぬ月かな(俊恵)
・夜をこめて明石のせとをこぎ出ればはるかにおくるさを鹿の声(〃)
・立田山梢まばらになるまゝに深くも鹿のそよぐなるかな(〃)
各人三首ずつにとどめたが、いずれも秀歌揃いである。経信はともかく、俊頼・俊恵を何故恋歌にしたのか、ふにおちない。また、西行や慈円は、新古今入集第一位と二位であり、数多くの名歌・秀歌を残しているが、何故「歎けとて」・「おほけなく」なのか、これまた大抵の人には納得はいくまい。
しかし、それでも目崎徳衛氏が文化史的視点から指摘されたように、小倉百人一首ほど「永くかつ広く愛唱」の対象になったものはないし、この百首を暗誦しなければ、「お正月の遊びにさえ参加できなかった」のである。今日でもテレビの報道もあったように、八坂神社や近江神宮でカルタとりや各家庭でのカルタとり、また小・中学校でのクラス対抗のカルタとり大会は盛んに行われているし、江戸時代から明治・大正時代にかけてもさまざまなスタイルの百人一首カルタが造り続けられてきた。因みに私個人が所蔵する江戸時代から現代に至る二十種ほどの百人一首カルタは、ことごとくそのスタイルが違うのである。公家・武家・町家の子女の嫁入り道具の必需品となったことや種々のゲーム形式を考えると、もう定家や和歌や文学の問題だけにとどまらず、大きく文化史的に視座を拡大しなければならないことは、当然のことであろう。
(二〇〇四・一・一二 朝焼の芳野にて)
|