道成寺について
元々和歌山のお寺「道成寺」にまつわる「安珍清姫」伝説から派生した踊りで、
能楽では「鐘巻」「道成寺」、歌舞伎では「京鹿子娘道成寺」になりました。
【安珍清姫伝説】
熊野権現へ参詣に来た旅の僧安珍が、紀伊の国牟婁群眞砂の庄司の家に一泊した折、家の娘である清姫が、安珍を慕ったが、修行僧である安珍は清姫の想いに答えず、去っていきます。
安珍への想い断ち切りがたく、安珍を追って清姫は日高川を渡ろうとするが、船の渡しに拒否され、ついには蛇体へ変化し、日高川を渡ります。
蛇体になった清姫のうわさを知った安珍は、道成寺に逃げ込み寺僧の助けで鐘の中に身を隠します。
大蛇と化した清姫は、安珍の隠れた鐘に巻きつき、炎を吐いて、鐘もろとも安珍を焼き払ってしまうのです。
【後日談】
後日談として、安珍もろとも鐘が焼かれたので、道成寺では400年後に再興の鐘を作りました。
女人禁制で鐘供養の法要を始めたところ、清姫の怨霊が白拍子となって現れ、舞を奉納するとて鐘に近づき法要を妨害したと伝えられています。
【舞の歴史】
能や歌舞伎はこれを主に扱っています。
さまざまな形態があります。
長唄の「紀州道成寺」「女男道成寺」「奴道成寺」「二人道成寺」
荻江節の「鐘の岬」
義太夫「日高川」
歌舞伎の初演は宝暦三年(1753)三月、江戸・中村座で、初代中村富十郎によって、
演じられたといわれています。
【京鹿子娘道成寺の舞のあらすじ】
安珍清姫伝説の後日談の部分が元となっています。
桜の季節に道成寺の鐘の供養が行われました。その折、美しい白拍子、花子が現れ、鐘の供養に一曲まわせて欲しいと頼みます。
お寺は女人禁制でしたが、花子の美しさに、坊主は舞を舞うことを許します。
花子は烏帽子を付けて舞ったあと、娘の恋の姿をさまざまに踊ります。
終盤、次第に花子は狂気を見せるようになり、突如恐ろしい形相となって鐘をにらみ付け、鐘の中にはいっていきます。
驚いた僧が鐘を引き上げてみると、花子が蛇体となって鐘に巻きついているのでした。
白拍子花子は清姫の亡霊であったことが分かり、もう一度高僧が供養し、亡霊は去っていきます。
【みどころ】
舞のすべての原型が道成寺に含まれているといわれています。
全体は道行、問答、乱拍子、急の舞、中啓の舞、手踊、花笠踊、クドキ、山づくし、手踊、鈴太鼓、鐘入り、祈り、鱗四天、後ジテの出、押戻しという構成ですが、すべてを舞う場合は少なく、問答、乱拍子、急の舞、中啓の舞、手踊、花笠踊、クドキ、山づくし、手踊、鈴太鼓、鐘入りまでが中心となっています。
踊り手により、雰囲気、趣が変わってくるところが見所。
さまざまな舞踊家の道成寺を見比べるのも面白いところです。 |